院長プロフィール
- 【氏名】 内倉 健作
- 【出身地】 兵庫県尼崎市
- 【生年月日】 1967.10.28
- 【趣味】 最近は山登りと日曜大工
- 【特技】 何でも美味しく食べられる
- 【好物】 納豆
略歴
- 1996年 日本整体学院 (中山整体療院) にて2年半の臨床経験を積む
- 1999年 大阪市福島区にて『新福島整体 けんこう堂』 を開業 (現所在地)
- 2006年 アカデミーボディースクール 達人コースに参加
- 2007年 リセット療法の講師として、全国セミナー指導を行う
- 2008年 達人会副会長 就任
- 2009年 関西達人会会長 就任
- 〃 アソシエイツメソッド に参加
- 2010年 達人会を離れる
- 〃 p&kライセンス取得
- 2012年 長年の施術現場での経験と知識を結集して独自の施術手法を体系化する
生い立ち
1967年10月28日 兵庫県尼崎市にて内倉家の次男として生まれる。
股関節の脱臼と斜頸という顔が右を向いたままの症状を持って生まれてきました。体も小さく、心配した父親が「健康を自分で作っていけるように」という意味で『健作』と名付けたそうです。
健作という名前は整体師となった今では、「整体師用の名前ですか?」なんて聞かれるくらい整体師にピッタリの名前で自分でもビックリしています。両親に感謝です。
中学校の1年生までは背も低く(背の順で並ぶと前から5番目くらいが最高)、よく熱を出してとても体が弱かったですが、中学2年の途中から突然背が伸び始め、体もだんだん丈夫になってきました。147pで中学校に入学して177pで卒業し現在は183pでどう見てもチビではないですね。
この頃の体の状態は
小学校の遠足など少し長い距離を歩くような時には必ず右の股関節が痛くなって、とても疲れやすくてすぐに頭痛をおこしていました。中学・高校時代は頭痛が辛くて、物事に集中できなかった思い出があります。
転機
当時のことは懐かしい思い出ですが、朝から晩まで本当に辛くて二度と戻りたくない苦しい時期でもあります。(苦笑)
その後、トラックの運転手や中央卸売市場の荷降ろし作業などいろんな仕事を28歳頃までやっていました。
時期を同じくしてもうひとつ、高校時代の親友と婦人靴縫製の下請けの仕事をしていました。そんなある日、あの阪神大震災があったんです。日本の靴製造の中心地のひとつが神戸の長田で、震災時最も被害の大きかった地域のひとつです。私達は幸い尼崎市に作業場がありましたので、被害はなく私達以外の同業者さんが仕事ができない状態だったので私達に仕事が集まるようになりました。
心境は複雑でしたが、それなりに順調だった仕事もその1年後突然、相棒だった親友の事故死で大きく私の人生観が変わりました。『自分で考え、選択し行動する。』この当たり前なことが自分にできているのか?
“生きる”ということを生まれてはじめて考えた時でした。
この頃の体の状態は
19歳〜28歳の10年、毎日が肩こりで2〜3日に1度はヒドイ頭痛に襲われていて、仕事も月に1度以上は頭痛で休んで会社の人からは「ズル休み」していると思われていました。
今思えばこの時期が、体調も何も全てが辛かったように思います。
整体との出会い
その親友との別れの後、全ての仕事を辞めて3ヶ月間悶々とした生活をしておりました。そんな私の姿を見かねた友人がある日声をかけてくれました。
実は私、学生時代から自分の手や足の指の関節をポキポキ鳴らすのがクセでいつもポキポキ鳴らしていました。また自分の指だけに収まらず、他人の指の関節を鳴らすのも好きで、嫌がる友人を捕まえてはポキポキやっていたんです。。
その頃を知っている彼から、「おまえ、他人の関節を鳴らすのが上手いやろ。整体師とかになったらいいんちゃう。」 ・・・ピカーンと頭の中で電気が光った感じでした。そんな些細な一言が私の整体師人生のきっかけを作ってくれたんです。友人ありがとう。
早速、本屋で2,3冊ほど鍼灸師や柔道整復師になるための参考書を買いに行ったたまたまついでにもう1冊取った本が、私の整体の師匠になる中山建三先生の本でした。家に帰り一気にその本を読んだ30分後には、神奈川の師匠の整体院を見学させてもらうアポの電話をしていました。
28歳から2年半の間、神奈川県大和市の中山整体療院で住み込みで勉強をさせていただきました。時代は平成になっていましたが、昭和な修行生活をガッツリ経験させていただきました。
私の今のヘアースタイル?坊主頭もこの時期(30歳)からでして、少ないお小遣いからでは散髪代が食費に化けてしまって、やむなく仲間内でバリカンで丸坊主のやり合いをしたのが始まりです。
お陰様で今では散髪代くらいは残るようになりましたが、ヘアースタイルを変えるつもりはありません。
この頃の体の状態は
整体の勉強をすることになった初日、中山建三先生に施術をしてもらった時に、首の状態がヒドく悪いことと、この状態だったら今までどんなに辛かったかをドンピシャに言い当ててもらいました。
施術でもとても楽になりましたが、自分の辛さを分かってもらえる先生と出会えたことと「治るから、大丈夫だよ!」と言ってもらえたことでとても安心したことを覚えています。
その後、時々施術をしていただきながら自分でも自分の症状を治そうと一生懸命整体に関して勉強しました。1年を迎える頃には頭痛の頻度も格段に減って、自分の症状を治せる確信がもてました。
開業
開業後も、オステオパシーやカイロプラクティック。流派の違う整体法、足つぼそして合気道、介護動作などなど来院者様の症状を改善させるために有効だと思えるものを片っ端から学んできました。
以前ほど何から何までという訳ではありませんが、今でも必要と思うことは常に学びに行っており少しでも有用な情報を皆様に提供できるように日々精進しております。
この頃の体の状態は
整体院を開業して1年後、通勤中バイクで転倒してしまって、骨盤と腰骨を骨折していまうという大事故を起こしてしまいました。集中治療室に入れられ体にチューブやコードが付けられて、腰と骨盤の激痛と右脚の感覚がほとんどない状態が何日も続きました。
一生車イス生活になるかもしれない。と言われたこともありましたが、リハビリを続けるうちに右脚の感覚も少しづつ戻ってきて自分なりのリハビリ方法を考えて試して、いわゆる自分の体を使った人体実験みたいなことをやっていました。
皮肉なことにこの大事故のお陰で事故や怪我からの日常生活に復帰するためのノウハウを確立することができました。これは現在、けんこう堂の施術の得意分野のひとつになっています。
私の整体師としての使命(ミッション)
“ 人は生まれながらに自らの不調を治す方法を知っている ”
そのことを皆様自身の体で実感してもらうことのお手伝いをする。それが私の使命です。
今私ができることを一つずつ積み重ねて参りたいと思っております。
最後に・・・私の夢
100歳まで現役の整体師で最期の日の前日まで施術をやっていたいというのが夢なんです。
この夢を語ると皆様に笑われるのですが案外本気の夢なんです。